ピーター・フリーストーンって誰?

なんで日本がそんなにいいの?ピーターはフレディ・マーキュリーがどんだけ日本好きだったかを具体的に世界に発信してくれている人、は言い過ぎ?

http://www.freddiemercury.com/en/ask-phoebe

 一部、訳した下のブログの番号は、このリンクにある番号です。
 英語が苦手でも、音楽好き、イギリス好き、イベント裏方経験者なら苦にならない内容!
 ピーターは質問に答える、という形式でブログを書いています。
 前回も紹介しましたが今回、英語の原文は上のリンクだけにしました。

 今回は前半、「ピーター・フリーストーンって?の部分」、後半、「フレディの日本大好きの部分(多すぎてまだ終われない・・)」です。

Joe の質問、私(ピーター・フリーストーン)がクィーンの衣装担当からフレディの個人アシスタントに転向したことについて(ブログ50、52)
  私はクィーンのクレイジー・ツアーから始めました。ステージ衣装の全て、バンド到着時に楽屋が準備万端になっているようにすること、ショウの間、ステージ袖にいて、汗で濡れた衣装を脱ぐのを手伝うことでした。
  終了したら4人の靴ひもを解いたり、靴やソックスを脱がせたり。
  フレディの個人アシスタントを始めてからはフレディが行く場所、世界のどこでも、同行しました。
  ショウの間はトニー・ウィリアムズに交代するまでしばらくの間バンド4人の衣装についての世話をしていました。


Liz の質問、パーソナル・アシスタントとして、毎日、どんな仕事をしてたの?(ブログ73、52)
  フレディが音楽に集中できるように、日常のあらゆることをしていました。
  電話応答、食料買い出し、調理は少々、掃除、フレディがいなければならない場所に、予定時刻に、彼が必ず到着しているようにすること。
  5年間、彼の影のように付き添っていました。
  プレスコンファレンスのときには彼が欲しいものを手渡す、例えばシガレット、飲み物、ティッシュ

Diego の質問、どんな風にフレディと知り合ったの?(ブログ64)
  私が初めて彼を見かけたのは70年代初頭のビバ、彼がメアリーと入ってきたときです。
  次は私がロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスでロイヤルバレエ団の衣装係として働いているとき。
  ロイヤルバレエが組織していたチャリティー・ガラのスペシャルゲストが彼でした。
  そのパーティーで会いました。
  彼は「リハーサルで来たとき、あなたを見かけました。どんな仕事をしていますか」と聞き、私は答えて、そのときはそれだけで終わりました。
  二週間後、クィーンの事務所から私の上司への電話:「クィーンのツアーに同行して衣装の担当をするという6週間だけの契約にピーターは興味があるだろうか」

Brandon の質問、フレディに会う前からクィーンのファンでしたか?(ブログ68)
  いいえ、ファンではありませんでした。
  1979年に会ったとき、「セブン・シーズ・オブ・ライ」、「キラークイーン」、「ボヘミアンラプソディ」は知っていました。
  もし大ファンだったら、彼らの衣装係という仕事の話は来なかったでしょう。
  彼らに必要だったのは舞台衣装を扱える人間で、ショウの間にアイドルを眺める人間ではなかったのです。
  当時、私はルドルフヌレエフ、マーゴ・フォンテイン、ルチアーノパヴァロッティ、モンセラート・カバリェ
(のちにデュエット)らの担当をしていたので、ロイヤル・オペラ・ハウスから私を「盗んだ」ことをフレディは自慢していました。

Albertoの質問、私(ピーター・フリーストン)はフレディーのボーイフレンドだったことはありますか?(ブログ40)
  ノー! ガーデン・ロッジ・グループ、メアリー、ジム、ジョー、私のうち、セクシャル・リレーションシップが無かった唯一のメンバーです。(他の3人は時期は重ならないそうで・・・)私はこのことについてハッピーです。もしそんなことでもあろうものなら、私たちのワーキング・リレーションシップのダイナミックさを変えてしまったでしょう。


Freddie Mercury の質問、どうして私(ピーター・フリーストーン)はフレディについてくだらないことを書くのか?(ブログ73)
  フレディがくだらない生き方をした、と思う人がいるのが悲しいからです。
  彼は偉大な作曲家、音楽家であったと同時に人格者でした。
  確かにクレイジーな振舞いも時々ありましたがシリアスで、物凄くよく働き、様々なチャリティに巨額の寄付をしていました。

Penny の質問、私(ピーター・フリーストーン)は本を書いたのに、また、どうして、このブログを書くの?フレディはプライベートを守りたかったのに。(ブログ61)
  最期の数年の会話:「逝ったら色々書かれる、と覚悟している。でも、一番重要なのは真実であること。でっちあげでなく。長所も短所も含めて、欠点も何もかもさらけ出して、ありのままに」それがこのブログの理由です。

  そんなピーターが書いた内容には日本のことがあちこちに。

Xavi の質問、フレディは特定の国(または国々)と特別な関係がありましたか?(ブログ52)
  国というものに対して、単なる場所、という以上に思想などなかったと思います。本当に「マン・オブ・ザ・ワールド」でした。唯一の例外が日本です。日本の全てを愛していました。寿司を除いて。バルセロナ、イビザ、ニューヨークなども好きでしたが、都市としてで、国全体、というわけではありませんでした。

Eliana の質問、フレディは人生に満足していたでしょうか?(ブログ39)
  満足していたと確信しています。ザンジバルから来た少年が世界的バンドの一員になり、多くの人をハッピーにすることができました。世界を回り、愛する場所で、愛する仲間と時を過ごすことができ、日本の芸術に耽溺することができたのですから。

Venkatの質問、何か国語できましたか?(ブログ38)
  フレディはスペイン語と日本語の歌詞を歌いましたが、英語で書いたのもを翻訳してもらいました。ハンガリーでのライブでハンガリー語で歌ったときは手に発音を書いていました。ミュンヘンに数年住んでいたので幾つかのドイツ語フレーズは学びました。日本語については、その国をとても愛していたので結構なフレーズを学びました。

Bronte の質問、どんな種類の日本の芸術がすきでしたか?(ブログ41)
  実際、日本の芸術なら全てのタイプがフレディのパッション(情熱)でした。一時期、日本の木版(浮世絵)についてイギリスで、個人所蔵としては最も所有していると有名でした。複雑なデザイン(蒔絵や螺鈿?)をした漆塗りの箱(複数形)も愛していました。古い(江戸時代の)根付もかなりコレクションしていました。根付とは木材と象牙でできた小さな手彫りのものです。古い着物もよく友達のために買っていました。色々な種類の博多人形も好きでした。博多人形とは陶器製で日本のレディたちを表したものです。


Paola の質問、どこの会社のピアノを持っていましたか?(ブログ50、51)
  ヤマハのピアノが好きでした。一つは(ロンドンの)邸宅に、一つはニューヨーク(高層フラット)に。
  ステージでのピアノはスタンウェイ。家ではいつもヤマハ。多分日本のものへの愛着と関係があるかもしれませんが、そのアクション
(動き?)が大好きでした。

(ブログ64、質問ではなく回想)
  クィーンの4人はいったん誰かを信用すると、「グレイト・ロイヤリティ」の念を相手に持ち続けていました。日本に初めてツアーしたときの写真に写っていたボディーガードが、私が最後に同行したツアーでのボディーガードだったのです。フレディは彼が日本に行くたびに、そのボディーガードしかない、と強調していたのです。

Yazmin の質問、邸宅にはどんな家具があったの?(ブログ72)
  部屋により違うテーマで、ミックスの部屋(単数形)もありました。メアリーがインタビューを受けた部屋にはエンパイア様式の家具とジャパニーズ・スタンドがありました。ジャパニーズ・ルームには壁に浮世絵が掛かっていましたが家具はオリエンタル・スタイルの19世紀の英国製でした。

この邸宅についてブログ51で:
(ガーデン・ロッジと呼ばれる)邸宅を手に入れて以降、彼の時間と注意を何よりも家に注いでいました。ロンドン中心部にある彼のカントリー・ハウスだったのです。元々のエドワード様式を復元させるために数年と巨額の費用をかけました。細部にわたり、壁、床の全てがエドワード時代のままであるように気を配りました。
(そこに、日本の部屋と庭か・・・)

Fred の質問、ガーデニングはしましたか?(ブログ51)
  良くプランされた庭が大好きで、庭のことを良く話していましたがガーデニングはしませんでした。唯一、フレディがジムと庭で口論してジムが怒って車に去ったとき、フレディがジャパニーズ・ルームの外側にある植木鉢に花を植える作業をジムに代わって少しの間、続けました。(ジム:「オレばっかり!フレディもやれよ」、という口論)

James の質問、フレディはどんな植物が好きでしたか?(ブログ51)
  日本のテーマに戻りますが、アゼリアツツジを愛していました。数多く植え、庭には専用セクションさえありました。そこには25色を超える標本木もありました。カメリア(椿)やポエニー(牡丹)も好きでした。

Anne の質問、何がフレディに平穏を与えていたの?(ブログ44)
  一人になって考えたいときは静かに庭に出てフィッシュ・ポンド(日本の鯉とそのための池の話が他で出てきます)の横に座っていました。
  目に浮かびます、日本式シェルター
(東屋、あずまや)の一つに(複数形!)にネコを膝に乗せて座っている姿が。そんな静けさは15分が精いっぱいでしたが。

Michael の質問、ネコの Delilahについて(ブログ49)
  Delilah はフレディのお気に入りでした。どのネコも大好きでしたが彼女は別格。 そうです、彼女は家のあちこちでピーしていました。日本のドローイング(書や水墨画の部屋でさえ。入ることを許されていた場合には。「would have done so on the suite in the Japanese drawing room, if she was permitted in there. 」という表現からして、その部屋がいかに大切にされていたのかよくわかります。誰か最適訳教えてください。

Sara の質問、フレディは刺青についてどんなオピニオンでしたか?(ブログ53)
  彼は自分には絶対に刺青をしませんでした。他の人のことは尊重していましたが、彼のために働く人には全員、イヤリングや他のピアスでさえも嫌がりました。(別のブログで、アクセサリー類、宝石、一切身に付けなかった、例外はジム・ハットンが贈ったシンプルな指輪だけ、とあります。エルトン・ジョンに勧められて南アで大きなダイヤを買ったけど銀行の貸金庫に入れたままで終わった、とも書いています。そういえば、初期のジャラジャラ時代もピアス無い。あのブレスレット、好きだったなぁ・・・)

最後にブログ44:
亡くなる前、フレディはジム、ジョー、私が「アウトサイド・ワールド」に直面する準備ができるまでガーデン・ロッジにいて欲しい、と言いました。3人が居続けたいと思ってない、とも知っていました。とても思いやりのある言葉でしたが、遺言は「ガーデン・ロッジとそのコンテンツ(中身)はメアリー・オースティンへ」です。ここに3人の大人の男は含まれていません。それで法律の手続きのあと、3人には準備のための3か月の猶予が与えられました。道端に放り出されたわけではありません。フレディが行き先を準備してくれていました。

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三島由紀夫「仮面の告白」とフレディマーキュリー

仮面の告白三島由紀夫24歳で刊行された半自伝的小説。


幼年時代
「王子たちのあのタイツを穿いた露わな身装(略)を空想することが、どうしてそのように快いのか」
「音楽映画をみに(原文まま)行った。袖口に長いレエスをひるがえした宮廷服が忘れられなかった」
クレオパトラ(略)活動写真(略)私は耽奇の目で眺めていた。(略)瞼全体にアイ・シャドウを塗った沈鬱な目つきを。その着ていた超自然な衣装を」
「扮装慾は(略)十歳ごろまで顕著につづいた」
「そこには(略)がいた。私の目には誰も見えなかった。私の熱狂は、自分が扮した(略)が多くの目にさらされているという意識に集中され」
「私は一人の男の子であることを、言わず語らずのうちに要求されていた。心に染まぬ演技が始まった」
17歳
「あこがれていた髪を伸ばすというのぞみ」
19歳
「ピアノの音が、彼の妹に対して私をぎこちない人間にしてしまった」(園子と出会う。モデルになった女性は邦子。戦争中)
「私には異性の肉感についてまったく定見というものが欠けていた」
21歳
「私の直感が園子の中にだけは別のものを認めさせる」
「園子への心の一途な傾倒と、それとは何の関わりもない常軌を逸した肉の欲情」
「私はただ生まれ変わりたかった」
「園子が或る男と見合いをして(略)結婚した」
22歳
「園子に逢いたいという心持ちは神かけて本当である。しかしそれに些かの肉の欲望もない」
23歳
「何事もなく逢い何事もなく別れるような機会をいくつか持った」
「園子のことを考えない日はなかったし、逢うたびごとに静かな幸福を享けた」
「こうした関係にあって、私はしかも、私にしかわからない不徳のよろこびをも抜け目なく味わっていた」
「私たちはお互いに手をさしのべて何ものかを支えていた」


「」内は原文引用、フレディマーキュリーを彷彿させる部分です。他にもたくさんあります。
ノーベル賞選考委員会にアドバイスを求められたドナルドキーン氏は63年、日本の年功序列に配慮し谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫、の順で回答したそうですが(谷崎は選考過程で他界)、本心、三島が一番、と考えていたと後年、NHKに答えています。
凡庸な私もそう思います。

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細江英公写真集

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ブライアンメイ公式サイトアーカイブ

薔薇と水仙
(ダフォダイルと20代インタビューと45歳PVで表現していますが、ヒヤシンスの間違いでは?どなたかご存知ですか)

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新潮社著者プロフィール

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ブライアンメイ公式サイトアーカイブ

上の似ている2人の謙虚エピソード、三島由紀夫ノーベル賞推薦文章を谷崎(58年)、川端(61年)、それぞれの為に書きました。
45歳(フレディと同じ年齢・・)で割腹自殺する月まで国民年金保険料を支払っていました。
don't do suicide, don't do it, don't do it
ジョンディーコンは学歴、演奏技術、世界大ヒット作曲能力、the4人の数億というお金の出入り管理能力、ブライアンメイたらしめる手先の起用さにもかかわらずゴリラの被り物をかぶりゴリラの動きで「いいとも」に出ました。

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シンディローパー、デッドオアアライブ、ベイシティローラーズなど楽屋こぼれ話

シンディローパー
デッドオアアライブ
ベイシティローラーズ 
ドナサマー
シャディ
マンハッタントランスファー

番外編
フリオイグレシアス 
白井貴子


すべて80年代半ば、名古屋です。
私は学生アルバイトとして楽屋で、当時「外タレ」と呼ばれた方々の雑用係をしていました。
上記の方々は特に印象に残っているので、当時の雇い主は定年退職していると勝手に判断し、書くことにしました!
時給500円、交通費無し、連絡は前夜のこともありました。
雇い主はステージ設営に行くので楽屋では日本人、私一人でした。

シンディローパー

「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」等のヒット曲を独特の華やかなビジュアルで歌い、踊っていた彼女、心底、謙虚で、ファン思い、優しい方。

その日の名古屋公演が日本ツアー最後の日だったので、ステージ後、スタッフ全員、30人くらい?が楽屋に集まりました。
紙コップが配られ、全員に飲み物(アルコール無し)を注ぐ、というとき、末端の私の仕事だ、と思い私が動こうとしたら遠くにいたシンディローパージェスチャーで私を止めて、自分で、一人一人に「ありがとう」を言いながら注ぎました。
一番端にいた私にさえ来てくれたときの感動は忘れられません。
もちろん、どんちゃん騒ぎなどなく、市の施設なので元通りにする作業に、全員、すぐにかかりました。
そのとき私は思い出したのです。
感動で忘れていたこと!
ステージが始まる前、楽屋に近い女子トイレに、花束を持った高校生の女の子が二人、隠れていたのです。
私はもちろん、見逃しました。
(雇い主さん、時効よね?)
私はそのことをシンディローパーに言いました、そしたら!
彼女が「どこ?連れて行って!」
で、そのトイレに『走って』行ったのです。
シンディローパーが、個室を一個一個、覗き込み(元々ドアは全部、開けっ放しでしたが)、女子高生達を探しました。
が、誰も・・
申し訳なさそうな、残念そうな、シンディローパーの表情、本当に、ファンを大切にしてるんだーーと、新たな感動でした。
あのときの女の子たちにこのブログが届くといいのですが・・


デッドオアアライブ

公演の最中は一人で楽屋の整理整頓、のはず。
でも散らかしっぱなしのタレントもローディも、一人もいませんでした。
だから毎回、ステージから聞こえる音に耳を澄ませていたのに今回は、雇い主が走って来ました。
「ピートバーンズがTバック履いてる!凄い!陰から見ていい、こっち!」

大音量の中、機材の向こうに見えた、美しい後ろ姿、美しいおけつ。
「ユー・スピン・ミー・アラウンド」のイントロと共にマイクを持っていない方の腕を高く挙げ、音楽に合わせ回転し始める。
国際展示場、満場の会場も興奮状態。
ウォーっていう、男性観客の低い絶叫コーラスがステージに大波で押し寄せました。
女性客じゃない、男性客がこんなに、しかも何千人?もの男性が、彼に喜んでいるっていうのも大発見な感覚でした。
観客席にも行ったのですが、見える範囲、男性ばかり。

「ビジュアルの音楽が好きなのは女で男は質」と『発信』する男性が70年代に多かったのですが、私がチケット購入して行ったキッスもクィーンも、半分は(もっと?)男性のお客さんでした。

ピートバーンズ、本当に、全身、お綺麗な方。
楽屋は彼専用の小部屋に籠もっていたので私がそれ以上、近くで鑑賞することは出来ませんせした。


ベイシティローラーズ

「サタデー・ナイト」等のヒットからだいぶ経っていましたが客席は埋まっていました。
雇い主が「レスリーマッコーエンの奥さん、日本人だから。楽屋入るけど気にしてないで。それから牛乳はパットマッグリン用ね。好きなんだって」と言い残し表に去りました。

そして日本人女性が威風堂々、入ってきました。BCRよりもロックンロールな衣装で。
私は圧倒され近寄れませんでした。

雇い主のお言葉を思い出し、クーラーボックスを確認。
他のタレントのときには見たことが無い飲み物、牛乳パックが1本。
アルファベットはどこにもない。
これじゃわからんな、と思ったのでパットマッグリンに「これ、ミルクです。あなたのためです。」って言いました。

牛乳パックの向こうに立つパットマッグリン、お化粧前なのに肌が白陶磁器のように、キメが見えないほど透明。
頬がうっすらピンク、まつ毛が長――くて上下にカール、身長165無いかも?
きゃしゃで、お人形のよう。
あの頃、彼は何歳だったんだろ?

来日中はプロだけに囲まれているからか、庶民の私に目を輝かせて喜んで、「OOホテルのOOO号室にいるんだ、来てよ、ね?」
(私は平顔、平胸、団子っ鼻)
こ、この人(元)スターじゃなかったっけ?と絶句してるうちも子供のように無邪気な笑顔でホテル名と部屋番号を繰り返す。
「ファンが怒るよ」って答えたら「わかんないよー」って言いながら少女のような愛くるしい仕草。
「私ボーイフレンドいるし」(片思いで相手にされて無かったけど)

クィーンの映画を見て思い出しました。
あのときのパットマッグリン、「話し相手」が欲しかったんだ。


ドナサマー

着替えの小部屋の床がコンクリートだったので、雇い主は50センチ四方くらいの畳を置き、いつものように去りました。
ドナサマーが楽屋入りし、小部屋に直行。
直ぐに飛び出して私に走って来ました。(女は私しかいなかった)
「床に邪魔なものがある!着替えできない!」
なんだか、意地悪されたかのような表情。
もちろん、直ぐにどかしました。
「着替えるときに裸足じゃ冷たいからマイボスが置いた」って言ったのですが「なんで?邪魔ー」


シャディ

公演の後、私に「この灰皿、欲しいんだけど」
どこにでもある安っぽい銀色のUFOみたいなアレ。

市の施設の備品だから雇い主に聞きに行きました。
撤収作業で大忙し、困った顔で「一個ね、内緒ね」
シャディにそのまま伝えると、嬉しそうに、大事そうに、一個、持って帰りました。

名古屋市に税金を納めていた方、ごめんなさい!

歌い方のとおり、おしゃれけだるいソフトな方。
顔 (頭)、ちっちゃかった。


マンハッタントランスファー

客席の両側、壁の向こう側に通路がある会場でした。
メンバー4人、2人、2人に別れくつろぎながら楽屋を出ていきました。
私がお使いで一方の通路に入ったら向こうから2人が喋りながら歩いて来る。
反対側の通路からもう2人のちょっとした発声練習が聞こえました。
(観客席を挟んで)
こっちにいる2人がおしゃべりの延長のように向こう側の2人とハーモニー。
歩く速度は変えず。
発声練習とリハーサル。
マイク無し、建物全体に4人の声がリズミカルに響き渡っていました。


番外編

フリオイグレシアス

「ビギン・ザ・ビギン」や「ナタリー」がヒットしたスペイン人。
私は担当しなかったのですが、このアルバイトを紹介してくれた友人が担当。
彼女はスペイン語得意。
フリオイグレシアス、「日本に来て初めてスペイン語で話せた!」と言いながらハグしてチュー。
彼女はとっても美人。


白井貴子

大学生になる前、高校を卒業した後、ライブハウスでアルバイトをしていました。
大学に行けると思っていなかったので。
大勢の日本人ミュージシャンの真摯な態度に打たれたのですが、白井貴子は断トツでかっこよかったです。

ステージに出る前、バンドのイントロが始まるとその場で駆け足。
表情には物凄い緊張のオーラ。
音の高まりと共に両腕も陸上選手のように振って、駆け足続けながら全身でリズムを合わせ、絶妙なタイミングで飛び出していきました。
出たら、一瞬前までの緊張の表情はカケラもなく、お客さんのためにひたすらパワフル。

お客さんはテーブル(5メートル?くらいの細長い木製がステージに対し直角に2列)で飲んで食べて。
そのテーブルに白井貴子が飛び乗り、走り始めた!
お客さん大喜び。
従業員総出でグラスや皿を必死で片付けました。
片付けがエキサイティングって、この後、ありません。

この時の白井貴子さん駆け足、私がブログで書いたショート・ストーリーのモデルです。

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ラミ・マレックと中東和平

ラミ・マレックも、彼が演じたフレディ・マーキュリーも、出自なんか吹き飛ばした。

物凄い才能と、努力で。

でも、と、凡人の私は思う。

アラブ人とペルシャ人は歴史的にめちゃくちゃ仲が悪い、シーア派スンニ派かの、宗派の問題より根深い、と、あちこちのジャーナリストが言っている。

ラミもフレディも、両親はムスリムイスラム教徒)ではない、それぞれに少数派の宗教。

ちなみにフレディ・マーキュリーはイエスキリストを称える歌を作詞・作曲している。新約聖書の中の福音書の話をちりばめた歌詞。(1枚目のアルバム最後から2番めの曲、Jesus)

同じアルバムにDon't believe all you read in the Bible (Great King Rat)、I have sinned dear Father (Liar)とある。

  

ラミ・マレックの両親がエジプト人だからといってアラブ人かどうかは、知らない。

フレディ・マーキュリーの両親はゾロアスター教だから、たとえインドにいても、代々、混血せず、ペルシャ系のままだったのは確か。

だから、と、頭の悪い私は思う。

シリアなど、複雑に絡み合った中東問題の中にいる人たちは、この映画を、どう見るんだろう?

紛争地域に映画を見る設備はない。

でも、ネットはあるらしい。

アラブの人は、ラミがペルシャ人ルーツの人を熱演したことを、どう思う?

ペルシャの人は、アラブ人であろうラミがペルシャ人を熱演したことをどう思う?

 

私は仕事でアラブ人とも、ペルシャ人とも、別々に接した。

私が会った彼らはムスリムで、いろいろな要望を提示されたので、映画ボヘミアンラプソディが絶対に受け入れられないことは身に染みてわかる。

でも、アラブ人とペルシャ人はムスリムばかりではないし、ムスリムでも個人により地域により(アラブがあまりにも広地域だから)、宗教的熱心さに差があることもわかった。

歌は社会制度を簡単に凌駕する。

I Want To Break Free が独裁政権打倒のアンセムになったように。

(だから敬虔なイスラム社会では、小学校での音楽教育をしていない)

敬虔でない地域にも(日本とか)彼らはたくさん住んでいる。

彼ら、さんがこの日本語ブログを目にすることがありますように。

そしたら教えてください、映画ボヘミアンラプソディに好意をもつのかどうか。

 

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