ピーターフリーストンのブログについて3回目、最終回{フレディの曲の作り方、放射線治療の痕隠しのためのヒゲ(涙)など}

 

知らないうち、9月に最新版が出ていました。1月以来です。

BLOG 96

http://www.freddiemercury.com/en/ask-phoebe/blog-96

 

BLOG 19

Leda の質問。Freddieが一人で過ごす場所

ガーデンロッジ(と呼ばれるロンドンど真ん中の庭付き豪邸)、塀の内側沿い、鯉の池のほとりにある東屋。この東屋については他にも何度か言及されています。屋敷の人間はみな、彼が一人になりたいときは庭に出ることを知っていた。ただ座って考えているかエサをやっているか。

 

BLOG 18

Kerry の質問。Freddieの好きなアーティスト

好みは変わっていきました。浮世絵はどの作家のも愛していました。

 

BLOG 16

Andreas の質問。イタリアについて

Queen がイタリアにツアーに行かなかったのはイタリアがきらいだからではありません。2つの理由。

1、70年代から80年代、街中、路上、家の中でも銃の事件が頻発していたから。

2、時間が大切にされていなかったから。Queenがツアーをしたころ、携帯電話もない、電子メールも無い、だから時間を合わせることが重要でした。 サウンドチェックが 16.00なら、16.00なのです。私の個人的経験でも10.00の意味はイタリアでは10.00-11.00でした。(時間厳守についての国民性、ブログの他の番号にも出ています。時間の感覚、クィーンが日本好きな理由の一つじゃないかと思っています。ブログ25には次のような:)

Kostasの質問。ギリシャについて

私の知る限り、Freddie は休日としてギリシャに行ったことはありません。

(こういう質問、答えが結構出てきます。なのに、日本にはいったいどんだけ!)

 

BLOG 13

Kdykes の質問。日本食

Freddie は日本のものなら何でも愛していましたが、刺身については線引きしていました。寿司を試そうとしたことはありましたが生の魚は含まれていませんでした。火さえ通っていれば何でも試して、照り焼きは特にエンジョイしていました。

 

(ここから下は日本とは関係ないです)

A FEW MORE QUESTIONS TO ANSWER(ブログの番号がついていないタイトルのところ)

Ivan Petracchi の質問。Freddieの曲作り

だいたい、同じ方法でした。スタジオの外では滅多に作りません。頭の中に浮かべて到着。ピアノに座り、頭の中にあるチューンに合うコードから始める。基本のアイデアができるとロジャーに基本的なドラムトラックをクリエイトしてもらう。 Roger は5分間のリズムトラック。to which Freddie がピアノパートを加える。曲の形が見えてきたらBrianに基本的なギターを、Johnにベースリズムをしてもらう。頭の中にある単語を2、3個加える。Slowly the song would be filled up with drum fills, guitar riffs and all the other extras. 最後にFreddieには一番困難なパート…. 歌詞に取り掛かる。何時間でもstruggle して‘just right’!まで粘る。(もっと詳しく、詳細に説明しています。他の箇所でも何度も取り上げています)

 

BLOG 31

Mike の質問。Freddieが USAで行ったゲイ関連の場所

Freddieはアメリカで 大都市の中にある‘gay’ towns を探していたわけではありません。一番近くてJones Beach in NY。丸一日過ごしました。午後はFire Islandに。夜は知り合いがいれば様々なbarsに。一番よく行ったのは The Saint, The Roxy and Studio 54。(KISSのピータークリス自伝に、デビューの頃、メンバー中、自分だけ連れて行かれたトンデモな店の記述があって、ハチャメチャなピータークリスでさえ、直ぐに部屋を出た、とありました。それを読んだときに心配したのです。まさか、フレディが連れて行かれたないよな、と。そのピータークリス自伝に、レットミーエンターテインユーの歌詞に出てくるプレジャーチェストが出てきます。そのことについてはまた後日)

 

BLOG 25

Princess Diana とのうわさ

 ‘dwarves小人 walking round parties with bowls of cocaine on their heads頭の上にボウルいっぱいの薬物を載せて’のうわさと同じだと思います。数々のうわさは信じられるように思われますが、実際にはありませんでした。 Freddie はPrincess Dianaに会ったことがありません。

 

BLOG 22

Joeyの質問。他のHIV/AIDS 患者に病院で気がつかれることはなかったの?

早朝に行っていました。病院に行ったのはKaposi’s Sarcomaの放射線治療だけでした。場所はthe Cromwell Hospital、当時は有名人が公衆の目を避けるために使っていました。 (病気を自覚する前後のころから、マスコミが見張っていて病院に行けなかったことを含め、ブログのあちこちに詳細あります。質問者に合わせて。例えば次の15

BLOG 15

Katie の質問。ひげについて

the moustache/beardの時代は、主にカモフラージュのためでした。Kaposi’s sarcomaの治療のために跡が残っていたからです。

 

BLOG 17

Anna の質問。モントルーについていろいろ

Freddie はどこでも、一人で住んだことはありません。モントルーのアパートメントにはベッドルームが3つありました。フレディ、ジム、テリー、ジョー、or 私(ピーター)用。私が79年に会ったとき、ケンジントンのスタッフォードテラスに住んでいました。一人ではありませんでした。いつでもお茶を入れてくれる人が必要だったのです!私が彼のパーソナルアシスタントになった理由の一つです。80年代初頭の2年間、フレディは自分でやってました。

 

ピーターフリーストーンが書いている膨大なブログ、3回に分けて紹介しました。読んでくださった方々、ありがとうございました。雑な訳で申し訳ありません。クィーンが好きな方、ぜひ原文で読んでください。

2回目は

hanadayumiko.hatenablog.com

1回目は

hanadayumiko.hatenablog.com

です。

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KISSポールスタンレー「ロジャーによろしく」

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生まれつき右耳が無く、聞こえない。

外耳がjust a crumpled mass 潰れた塊、a stump on the right side of my head 頭の右側に切り株のようなもの。外耳道はclosed 閉鎖。

 

 1999年、47歳まで秘密にしていた(30代前半に外耳形成手術を受けた)。知らなかった。

 

 12歳の私が夢中になったKISSのボーカル、ポール・スタンレー。

 自分で書いた自伝を自分で読み上げる(12時間以上!)オーディオ・ブック「Face the Music」を買った。

 KISSと同時期、フレディ・マーキュリーの存在を知り、「こんな人間になりたい」と心底、願った。

 私には神だったこの二人、お互い、こんなヤツに負けるもんか、とか、内心、燃えていたのか? 何か、触れていないかと、それが知りたくて聴き始めたら予想外に障がいのことを話し始めた。私には他人ごとではない。

 

 片耳が聞こえないことがどういうことか。見た目の悪さ故、5歳ころ以降、顔にツバを飛ばされるなど同世代からの「執拗な」攻撃。周りの大人たちからもジロジロ見つめられることがイヤでしょうがなかった。方向感覚がわからない。やる気が無いと判断される。様々な経験が語られている。

 誰にも取り合ってもらえなかった7歳、住んでいたアパートの隣部屋のアイルランドから来た老姉妹が親切で、そこんちで思いっきり歌って踊って、喜んでくれるのが嬉しかった。(その老女のどっちかになりたかった)

 そのころ住んでいたのはマンハッタン島の北端。ホロコーストから逃げてきたユダヤ人がたくさんいた。大人たちの腕には番号が焼きつけられていた。その地域は元々、アイルランド系の地域。アパートは個室が一つ。その個室に姉とポール。両親は居間のプルアウト・ソファ(座面を引き出してベッドに変形させる)で寝ていた。

 

 8歳のときにクイーンズに引っ越し。個室が二つで両親はやっと自分達のベッドを持てた。

 中学に入ったときラジオをもらって音楽に没頭した。

 ビートルズをテレビで見て衝撃を受け、耳を隠すことをかねて髪を伸ばし始めた。

 中学時代、不登校ぎみになりながらラジオで音楽を聴き、好まれる音楽はどんなものか、一人、部屋にこもって、曲の作り方を自己流で考えていた。14歳で初めて手に入れたエレキギター(一番安い)を使って。(アコースティックギターは13歳で入手)

 友達とローリングストーンズのサティスファクションを演奏。

 16歳、「ファイヤ・ハウス」を作った。みんな、ミゼラブル(惨め)。エンターテイメントが必要。じゃあ、僕が。

 21歳、ステージ衣装を買うお金がないから生地を買って自分でミシンを使ってズボンを作った。ジーンの分も作った。お母さんが「ジッパーは難しいからあんたにはムリ」と言われたけどできた。「何事も、実行するかしないかだけのこと」 お母さんが手伝えなかったのは2歳上のお姉さんが赤ちゃんを産んで(19歳のポールは姉のお産前後、病院に付き添っていた)、精神病患者の施設に入り、その赤ちゃんを両親が育てていたからだろう。

 そのお姉さん、小さい頃から精神病の施設を入退院していた。家にいるときにハンマーで追いかけられた話はホラー映画レベル。ポールが小学生の時、お姉さんを捜しに両親が2晩戻らなかったときには「三人とも死んじゃったんじゃないか」と思った。

 

 昼ご飯のお金がないからジーンと通りに出てビートルズを歌ったらあっというまにボックスがお金でいっぱいになった。翌日も同じことをしようとしたら警察にダメと言われた。(通行人になりたかった)

 

 メイクアップは自己逃避(別人格を作り出すため)でポール十代からのアイデア。素顔は隠しとおす、はビル・オーコインのアイデア

 

 23歳、ライブはソールドアウトが続いていたのに、ビンボー。マネジメント(ビル・オーコイン)が総収入の最初の20%を取り、次にあらゆる経費を引き、残りを4人でわけていたから。ビルがそれだけの仕事、発想と努力をしてくれていたからその配分は納得している。

 (デス・オン・ツー・レッグスの誰かさんとは違うらしい)

 ビルが次々と仕事を取って来て、アメリカ中あちこちのレコードショップでフルメイクアップ、フルコスチュームで出なければならず、一度、うんざりして4人でモーテルから出ないでいた。ビルがすっ飛んで来て、説得された。4人一人一人に、自分は特別だと思わさせて大事にしてくれた。

 

 初来日、到着した空港で乗った車に押し寄せるファンに固まってしまった。ジーンに「スマイル!」と促された。

 リユニオンの来日時、ピーターじゃなかったことについて、ファンが怒ってるんじゃないか、チケット返品になるんじゃないか、ビクビクで向かった。でもファンはいつも通り温かく、心から安堵した。

 ピーターについては詳細が・・・

 グルーピーのことも。全米を回り続けていたから他のバンドとの交流はなかった。ホテルの電話(馬鹿高い)しか無い時代、情報も手に入らなかった。75年のあるときケンタッキー州で「女性ゲスト」が言った。「来週はクィーンがくる」”And you’ll be with Roger?  Say hi for me.” 「ロジャーによろしく」(ブライアンでもなく、ジョンでもなく・・・)

 あのタイプのステージ衣装は、当時、ゲイと受け止められていた。ポール「も」よくゲイと思われていた。

 

 当初のステージ衣装は1着づつしかなかったからツアー中、汗まみれで臭いがどんどんヒドくなっていった。一日に2ショウだと濡れたまま。自分でドライヤーで乾かしていた。肌がムズムズ。

 ブーツの中には「エコシステム」が出来上がった。居ないのはカエルだけ。外側に生えたみどりの苔を削っていた。

 それでも好きなことして収入があることが楽しくてしょうがなかった。

 姉と共有していた部屋は姪の部屋になっていたからリビングのプルアウト・ソファで寝ていた。

 そのソファ(親の寝室との間の壁に沿って置いてある)、ガールフレンドと寝て、翌朝、お母さんに「寝れなかった。ソファが壁にバンバンあたるから」と言われ、アパートを探し始めた。安い物件なのでかなり不便な場所だった。住所も言っている。

 だいぶ裕福になってマンハッタンで高級物件を探すため不動産屋さんに行ってポールが言われたこと=「五番街沿いと、セントラルパークが望める物件は、賃貸でも分譲でも、建物全体の入居者が、出入りする人間を制限するために黒人とユダヤ人には貸さない、売らない取り決めをしている。あなたはユダヤ人だからムリ」

 ユダヤ人へのこのような扱いを始めて経験したのは16歳、友達の家に入れてもらえなかったとき。

 

 75年、憧れのロンドンにツアーで言ってがっかりしたのが設備の悪さ。(反対に、フレディ・マーキュリーアメリカの設備の良さがアメリカで一番好きだった、とピーター・フリーストーンが書いている)

 

 悪魔的イメージの帰結:

 中西部でモーテルに戻ると聖書を持った礼儀正しい人達に「あなたのために祈ります」と囲まれた。

 ディープサウスで会場は盛り上がったのに会場から出ると武器を持った集団に殺されかけた。

 カルフォルニアで会場を出たらハロウィンで路上が仮装の群衆で埋まって車が進めなかった。4人は車から降りてホテルまで歩いた。いろんな人が「本物そっくり」とほめてくれた。

 

 ドラッグが蔓延するロック社会だった。絶対にしないポールが周りを居心地悪くさせ、そのことでよけいにポールは居心地が悪かった。(前述のお姉さんがドラッグ中毒だった)

 アルコールも、ほとんど飲まない。

 ロックスターの三代要素、残り一つについては読むより、オーディオ・ブックで、本人の声で、聴いてください。

「僕の4人の子供達が将来、この本を読むように」って、いいのか? の内容。

 どん底を経験した後半部分なら、息子さん、娘さんのために。

 息子のために必死で料理を「得意」に「した」過程、などなど。子供にメロメロで家庭菜園まで始めた。

 22歳くらいからのモテモテ具合を聴くと(一夜限りの美女たち)、自分が知らない息子や娘が居そう。(お母さん曰く、「いったいどんなdogと寝てんのよ!!!」)

 DNA検査でもしなければ父親がわからないかも。上述の人、「あたしのベイビー、産まれたときはたれ目で濃い髪色だったけど、だんだん、端正なブロンドになってきた。どっち?」って言ってないだろうか。

 

 私の二人の神がそれぞれオペラ(87年)とミュージカル(99年)に挑んだときはボーカリストとして似たような理由だと思っていた。ところがポールの理由は「酷い顔を隠しているファントムは自分そのもの」

 初めてファントム・アト・ザ・オペラを観たのが88年ロンドンで、一緒にいたのはサマンサ・フォックス。その夜のことも語っている。サマンサ・フォックス、フレディとも親しかった? 

 

 オーディオ・ブックを一通り読み終わった。聞き取れないかったところも多数。

 ディクテーションを兼ねてもう一度挑戦。

 プロローグから:

 惨めだった自分を隠すために始めたメイクアップ

There was a time when this makeup was a mask-hiding the face of a kid whose life up to then had been lonely and miserable.

  メイクすると別人格が表れる感じがしていた

For many years when I first put this makeup on, I had a sense of another person coming out.

 自分が作ったこの人は、みんなに、僕と友達になっておけばよかったと思わせる

The guy I had created to show everybody that they should have been nicer to me, that they should have been my friend

 

 

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ピーター・フリーストーンって誰?

なんで日本がそんなにいいの?ピーターはフレディ・マーキュリーがどんだけ日本好きだったかを具体的に世界に発信してくれている人、は言い過ぎ?

http://www.freddiemercury.com/en/ask-phoebe

 一部、訳した下のブログの番号は、このリンクにある番号です。
 英語が苦手でも、音楽好き、イギリス好き、イベント裏方経験者なら苦にならない内容!
 ピーターは質問に答える、という形式でブログを書いています。
 前回も紹介しましたが今回、英語の原文は上のリンクだけにしました。

 今回は前半、「ピーター・フリーストーンって?の部分」、後半、「フレディの日本大好きの部分(多すぎてまだ終われない・・)」です。

Joe の質問、私(ピーター・フリーストーン)がクィーンの衣装担当からフレディの個人アシスタントに転向したことについて(ブログ50、52)
  私はクィーンのクレイジー・ツアーから始めました。ステージ衣装の全て、バンド到着時に楽屋が準備万端になっているようにすること、ショウの間、ステージ袖にいて、汗で濡れた衣装を脱ぐのを手伝うことでした。
  終了したら4人の靴ひもを解いたり、靴やソックスを脱がせたり。
  フレディの個人アシスタントを始めてからはフレディが行く場所、世界のどこでも、同行しました。
  ショウの間はトニー・ウィリアムズに交代するまでしばらくの間バンド4人の衣装についての世話をしていました。


Liz の質問、パーソナル・アシスタントとして、毎日、どんな仕事をしてたの?(ブログ73、52)
  フレディが音楽に集中できるように、日常のあらゆることをしていました。
  電話応答、食料買い出し、調理は少々、掃除、フレディがいなければならない場所に、予定時刻に、彼が必ず到着しているようにすること。
  5年間、彼の影のように付き添っていました。
  プレスコンファレンスのときには彼が欲しいものを手渡す、例えばシガレット、飲み物、ティッシュ

Diego の質問、どんな風にフレディと知り合ったの?(ブログ64)
  私が初めて彼を見かけたのは70年代初頭のビバ、彼がメアリーと入ってきたときです。
  次は私がロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスでロイヤルバレエ団の衣装係として働いているとき。
  ロイヤルバレエが組織していたチャリティー・ガラのスペシャルゲストが彼でした。
  そのパーティーで会いました。
  彼は「リハーサルで来たとき、あなたを見かけました。どんな仕事をしていますか」と聞き、私は答えて、そのときはそれだけで終わりました。
  二週間後、クィーンの事務所から私の上司への電話:「クィーンのツアーに同行して衣装の担当をするという6週間だけの契約にピーターは興味があるだろうか」

Brandon の質問、フレディに会う前からクィーンのファンでしたか?(ブログ68)
  いいえ、ファンではありませんでした。
  1979年に会ったとき、「セブン・シーズ・オブ・ライ」、「キラークイーン」、「ボヘミアンラプソディ」は知っていました。
  もし大ファンだったら、彼らの衣装係という仕事の話は来なかったでしょう。
  彼らに必要だったのは舞台衣装を扱える人間で、ショウの間にアイドルを眺める人間ではなかったのです。
  当時、私はルドルフヌレエフ、マーゴ・フォンテイン、ルチアーノパヴァロッティ、モンセラート・カバリェ
(のちにデュエット)らの担当をしていたので、ロイヤル・オペラ・ハウスから私を「盗んだ」ことをフレディは自慢していました。

Albertoの質問、私(ピーター・フリーストン)はフレディーのボーイフレンドだったことはありますか?(ブログ40)
  ノー! ガーデン・ロッジ・グループ、メアリー、ジム、ジョー、私のうち、セクシャル・リレーションシップが無かった唯一のメンバーです。(他の3人は時期は重ならないそうで・・・)私はこのことについてハッピーです。もしそんなことでもあろうものなら、私たちのワーキング・リレーションシップのダイナミックさを変えてしまったでしょう。


Freddie Mercury の質問、どうして私(ピーター・フリーストーン)はフレディについてくだらないことを書くのか?(ブログ73)
  フレディがくだらない生き方をした、と思う人がいるのが悲しいからです。
  彼は偉大な作曲家、音楽家であったと同時に人格者でした。
  確かにクレイジーな振舞いも時々ありましたがシリアスで、物凄くよく働き、様々なチャリティに巨額の寄付をしていました。

Penny の質問、私(ピーター・フリーストーン)は本を書いたのに、また、どうして、このブログを書くの?フレディはプライベートを守りたかったのに。(ブログ61)
  最期の数年の会話:「逝ったら色々書かれる、と覚悟している。でも、一番重要なのは真実であること。でっちあげでなく。長所も短所も含めて、欠点も何もかもさらけ出して、ありのままに」それがこのブログの理由です。

  そんなピーターが書いた内容には日本のことがあちこちに。

Xavi の質問、フレディは特定の国(または国々)と特別な関係がありましたか?(ブログ52)
  国というものに対して、単なる場所、という以上に思想などなかったと思います。本当に「マン・オブ・ザ・ワールド」でした。唯一の例外が日本です。日本の全てを愛していました。寿司を除いて。バルセロナ、イビザ、ニューヨークなども好きでしたが、都市としてで、国全体、というわけではありませんでした。

Eliana の質問、フレディは人生に満足していたでしょうか?(ブログ39)
  満足していたと確信しています。ザンジバルから来た少年が世界的バンドの一員になり、多くの人をハッピーにすることができました。世界を回り、愛する場所で、愛する仲間と時を過ごすことができ、日本の芸術に耽溺することができたのですから。

Venkatの質問、何か国語できましたか?(ブログ38)
  フレディはスペイン語と日本語の歌詞を歌いましたが、英語で書いたのもを翻訳してもらいました。ハンガリーでのライブでハンガリー語で歌ったときは手に発音を書いていました。ミュンヘンに数年住んでいたので幾つかのドイツ語フレーズは学びました。日本語については、その国をとても愛していたので結構なフレーズを学びました。

Bronte の質問、どんな種類の日本の芸術がすきでしたか?(ブログ41)
  実際、日本の芸術なら全てのタイプがフレディのパッション(情熱)でした。一時期、日本の木版(浮世絵)についてイギリスで、個人所蔵としては最も所有していると有名でした。複雑なデザイン(蒔絵や螺鈿?)をした漆塗りの箱(複数形)も愛していました。古い(江戸時代の)根付もかなりコレクションしていました。根付とは木材と象牙でできた小さな手彫りのものです。古い着物もよく友達のために買っていました。色々な種類の博多人形も好きでした。博多人形とは陶器製で日本のレディたちを表したものです。


Paola の質問、どこの会社のピアノを持っていましたか?(ブログ50、51)
  ヤマハのピアノが好きでした。一つは(ロンドンの)邸宅に、一つはニューヨーク(高層フラット)に。
  ステージでのピアノはスタンウェイ。家ではいつもヤマハ。多分日本のものへの愛着と関係があるかもしれませんが、そのアクション
(動き?)が大好きでした。

(ブログ64、質問ではなく回想)
  クィーンの4人はいったん誰かを信用すると、「グレイト・ロイヤリティ」の念を相手に持ち続けていました。日本に初めてツアーしたときの写真に写っていたボディーガードが、私が最後に同行したツアーでのボディーガードだったのです。フレディは彼が日本に行くたびに、そのボディーガードしかない、と強調していたのです。

Yazmin の質問、邸宅にはどんな家具があったの?(ブログ72)
  部屋により違うテーマで、ミックスの部屋(単数形)もありました。メアリーがインタビューを受けた部屋にはエンパイア様式の家具とジャパニーズ・スタンドがありました。ジャパニーズ・ルームには壁に浮世絵が掛かっていましたが家具はオリエンタル・スタイルの19世紀の英国製でした。

この邸宅についてブログ51で:
(ガーデン・ロッジと呼ばれる)邸宅を手に入れて以降、彼の時間と注意を何よりも家に注いでいました。ロンドン中心部にある彼のカントリー・ハウスだったのです。元々のエドワード様式を復元させるために数年と巨額の費用をかけました。細部にわたり、壁、床の全てがエドワード時代のままであるように気を配りました。
(そこに、日本の部屋と庭か・・・)

Fred の質問、ガーデニングはしましたか?(ブログ51)
  良くプランされた庭が大好きで、庭のことを良く話していましたがガーデニングはしませんでした。唯一、フレディがジムと庭で口論してジムが怒って車に去ったとき、フレディがジャパニーズ・ルームの外側にある植木鉢に花を植える作業をジムに代わって少しの間、続けました。(ジム:「オレばっかり!フレディもやれよ」、という口論)

James の質問、フレディはどんな植物が好きでしたか?(ブログ51)
  日本のテーマに戻りますが、アゼリアツツジを愛していました。数多く植え、庭には専用セクションさえありました。そこには25色を超える標本木もありました。カメリア(椿)やポエニー(牡丹)も好きでした。

Anne の質問、何がフレディに平穏を与えていたの?(ブログ44)
  一人になって考えたいときは静かに庭に出てフィッシュ・ポンド(日本の鯉とそのための池の話が他で出てきます)の横に座っていました。
  目に浮かびます、日本式シェルター
(東屋、あずまや)の一つに(複数形!)にネコを膝に乗せて座っている姿が。そんな静けさは15分が精いっぱいでしたが。

Michael の質問、ネコの Delilahについて(ブログ49)
  Delilah はフレディのお気に入りでした。どのネコも大好きでしたが彼女は別格。 そうです、彼女は家のあちこちでピーしていました。日本のドローイング(書や水墨画の部屋でさえ。入ることを許されていた場合には。「would have done so on the suite in the Japanese drawing room, if she was permitted in there. 」という表現からして、その部屋がいかに大切にされていたのかよくわかります。誰か最適訳教えてください。

Sara の質問、フレディは刺青についてどんなオピニオンでしたか?(ブログ53)
  彼は自分には絶対に刺青をしませんでした。他の人のことは尊重していましたが、彼のために働く人には全員、イヤリングや他のピアスでさえも嫌がりました。(別のブログで、アクセサリー類、宝石、一切身に付けなかった、例外はジム・ハットンが贈ったシンプルな指輪だけ、とあります。エルトン・ジョンに勧められて南アで大きなダイヤを買ったけど銀行の貸金庫に入れたままで終わった、とも書いています。そういえば、初期のジャラジャラ時代もピアス無い。あのブレスレット、好きだったなぁ・・・)

最後にブログ44:
亡くなる前、フレディはジム、ジョー、私が「アウトサイド・ワールド」に直面する準備ができるまでガーデン・ロッジにいて欲しい、と言いました。3人が居続けたいと思ってない、とも知っていました。とても思いやりのある言葉でしたが、遺言は「ガーデン・ロッジとそのコンテンツ(中身)はメアリー・オースティンへ」です。ここに3人の大人の男は含まれていません。それで法律の手続きのあと、3人には準備のための3か月の猶予が与えられました。道端に放り出されたわけではありません。フレディが行き先を準備してくれていました。

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ロンドン以外、地球上一番好きな場所は日本:フレディマーキュリー

一部訳:
彼は日本の全てを愛しました、寿司と刺身以外は!漆塗りの箱のコレクションを持っていました。彼の家具の多くは日本のモチーフを用いており、多くの食器や陶器は日本から。当時、浮世絵を個人コレクションとしてイギリスで最も所有していると知られていました。

これを書いたのはピーターフリーストーン(フォービーと呼ばれる)、79年から亡くなるその瞬間までツアー、プライベートのほとんどに同行しました。
恋愛関係は無く、出会いはフレディがロンドン・ロイヤルバレエのゲストとして訪れた劇場の衣装コーナー。バレエ衣装のメンテナンス係をしていました。始めはクイーン4人の為にスカウトされ、25歳のときからフレディーの家に住み、執事、掃除、電話を受けること(取り次ぎ)、ボディーガード、ステージで飲むレモネード用のレモン2個と蜂蜜と水とコップを毎回準備することから最後の看護、お葬式(フレディーご両親の意図に従い)、後片付けまでと書いています。
「フレディに関し、あまりにも真実でないことがまかり通っているので質問に答える、という形式でブログを始めた」とのことです。

面白かったので日本に関する部分のうち、ごく一部の訳と原文とそのリンクを以下に:

出典:http://www.freddiemercury.com/en/ask-phoebe/blog-86
上記の原文:
Other than his beloved London, Freddie’s favourite place on earth was Japan. He loved everything about Japan, except sushi and sashimi! He had a lovely collection of lacquered boxes, much of his furniture had Japanese motifs, a lot of his crockery and porcelain was from there, and he was acknowledged at one time as having one of the largest collections of antique Japanese wood block prints in a private collection in the UK. He also has numerous Hakata dolls, The porcelain dolls painted with lifelike colours in glass cases dotted around the place.
One of his favourite people was Misa Watanabe who was his personal guide in Japan. She and her husband owned huge chunks of the place, he was Mr. Suntory and Misa was in charge of music publishing amongst other things. It was great to walk around the department store after it was closed and all the people working there had to stay behind waiting at their counters for Freddie to go round making his choice of whatever he wanted, which was then duly packed up and sent to his hotel. Payment was sorted out with Misa at a later date. Freddie felt some sort of contentment in Japan he found nowhere else. Life could be so frantic and Tokyo was always so busy, but he continually found it a place to recharge his batteries.


一部訳:
色んなパーティーやパブリシティ写真でフレディが着ている服のブランドについて。ほとんどジョーが、ときどき私が調達していました。ブランドについては分からないのです。かなりの物は日本で買ったので店名が分からないのです。
http://www.freddiemercury.com/en/ask-phoebe/blog-95
原文:
I’ve had quite a few questions on where people might be able to get some of the clothes Freddie is seen wearing at various parties or publicity photos. Most of Freddie’s clothes were got for him by Joe and some by me. If something caught our eye, whether, for the colour or maybe unique design, we would buy it, take it home and see if Freddie liked it. Because we knew what he preferred, generally everything was put into one of his wardrobes and he would wear them when he wanted. He loved tracksuits and sweatshirts, because of the comfort factor. There are many photos of him in a bright yellow tracksuit holding the crown and also from his birthday party in Garden Lodge where he has on the red sweatshirt. Sadly I cannot help you with brands etc. Many things we found in shops in Japan and we rarely went to specific ‘brand name’ shops.


一部訳:
骨折について。最期の2週間、私たちは彼が部屋内で動くのを手伝っていました。はい。(質問者の皆さんのおっしゃる通りです。)日々弱くなり、飲食に興味を失っていきました。11月20日、下の階にいました。最期に一目、芸術作品の幾つかを見たかったのです。テリーが彼を下の階に降ろしました。フレディはスィティングルームとジャパニーズルームを歩き回りました。私たちの誰かの手を借りて。彼は、作品の幾つかについて、いつ、どのようにして入手したのかコメントしました。最後の最後まで、私たちが知っているフレディのままでいました。
http://www.freddiemercury.com/en/ask-phoebe/blog-89

I would also like to help put some people’s minds at rest regarding the stories of Freddie’s bones breaking when we were moving him round his bed to get him comfortable in those last two weeks. Yes, Freddie was getting weaker by the day, as he wasn’t very interested in eating or drinking very much, but he was able to stand and to walk very short distances, with some assistance. Just because the muscles are losing some of their strength doesn’t automatically mean that the bones are losing density. Freddie was downstairs in Garden Lodge on the 20th November, as he wanted to see some of his art works for one last time. Terry carried him down the stairs, but he walked around the sitting room and Japanese room with one of us supporting him. He commented on how and when he had acquired a few of the pieces. Of course there was a quiet atmosphere in the house during those last days, but Freddie remained the Freddie we knew until the end.

 

ラ・ジャポネーズ(という曲)で(庭にある)アゼリアの意味が私(ピーターフリーストーン)にもよくわかりました。(Samanthaという人が複数の質問をしたようです)
「ロック・アゼリア(日本の椿をアゼリアと呼ぶ外国の方がいますが、アゼリアはツツジです。ロック・アゼリアが何かは分かりませんでした。ピーターフリーストーンは別の日付けのブログでアゼリアとカメリアを使い分けています。その部分をそのうちに訳してアップします)」の意味についてフレディに説明をした人は、私の知る限りではいません。あなた(Samantha)の「話さずとも告げる」、という説明はラブリーな「サジェスチョン」だと思います。実際、フレディはガーデンロッジ(住んでいた豪邸の名前)の庭にアゼリア庭園を造らせました(その日本人造園家が日経新聞はじめ、日本のメディアにも出ていましたし、BBCドキュメンタリーにも出ています)。様々な色のアゼリアの花が咲く小さなブッシュ(複数)です。皆さんの多くがご存知のように、日本の物を愛していましたから、この花はその愛の延長です。(上記別の日付の話題に、20色以上揃えた、とあります)
La Japonaise gave me a wonderful explanation about azaleas.
http://www.freddiemercury.com/en/ask-phoebe/blog-82
As far as I am aware nobody ever explained to Freddie about the meaning of ‘rock azalea’. I find your description quite lovely ‘Suggestion, to tell without saying. It is true, Freddie did have an azalea garden within the garden of Garden Lodge, with small bushes of different colour flowers. As so many of you know, Freddie loved most things Japanese and this did extend to their flowers.


I was present when he bought some baubles for Mary and when he was waiting at Tokyo airport after he changed flight, he bought some beautiful pearls for his mother.


Salyadoの質問:訪れたいお気に入りの国は?
一部訳:
日本。(この言い切り。原文を見てください)フレディはクィーンのツアーで日本を知り、即座に恋に落ちました。休暇にもう一度訪れたいほど好きになった数少ない国の一つです。もちろんイビザにも80年代、2、3回訪れましたが、日本は彼の夢の国でした。3週間、買い物のためだけに行ったこともあります。

http://www.freddiemercury.com/en/ask-phoebe/blog-75
Salyado asked if Freddie had any favourite country that he liked to visit.
Japan. Freddie discovered Japan while on tour with Queen and instantly fell in love with it. It was one of the few countries he liked enough to go back there on holiday. Of course he went to Ibiza a few times during the late 80s, but Japan was the country of his dreams. He once went there on a huge shopping spree that lasted about 3 weeks.

おまけの訳:
大量の質問と答えがあり、私(訳者)も最近のものをわずかしか読んでいませんが、あの素晴らしい歌声とツアーを支えたのはやっぱり自己管理、と尊敬を新たにした部分について。(この点についてはもっとたくさん書かれていますが)

何人かの質問:アル中でしたか? 他の数人からの質問:彼のアルコール消費量は?

一部訳:
決して、毎日は飲んでいませんでした。ボトルをいつも口に当てているヘル・レイザーのイメージと異なり、飲むときは必ずグラスで、それも自宅にいればクリスタルのグラスを好んでいました。ビールでも、シャンペンでも、ウォッカでもトニックでも。アルコールを飲まない日は、紅茶か、新鮮な果物を絞ったものだけの日も。

Freddie did NOT drink alcohol every day. Unlike the image of the hell-raiser, with a bottle constantly raised to his lips, Freddie certainly preferred his liquid refreshment from a glass, crystal, if he was at home, whether it was a beer, champagne or vodka and tonic. There were days when he didn’t drink anything other than tea and some fresh squeezed juices. Barbara Valentin had a good phrase for those days away from the bars….the milk days. These were the days when they gave their bodies a chance to recover from the nights of excess. Freddie also generally knew his limit, though there were one or two occasions he went a little beyond it. Freddie used the alcohol to raise his spirits, and the alcohol also served to lower his shyness threshold when he was out with his friends in the bars.

Jorgeの質問:フレディは早起きでしたか?

一部訳:
早起きではありませんでしたが、起きる時間は一定でした。就寝時刻にかかわらず、毎朝9:00に、ベッドサイドテーブルに紅茶があることを期待していました。たとえツアー中でも、家にいるときもです。朝食は通常9:30までを心がけていました。本当に、たくさん寝る必要もなく、また、ベッドで一日を無駄にする、という考えを嫌っていました。

Jorge asked if Freddie was an early riser.

I don’t think I would describe Freddie as an early riser, but he was consistent. It wouldn’t matter what time Freddie went to bed, he always expected a cup of tea on the bedside table at 09.00 every day, whether we were on tour or he was at home. Freddie would normally have his breakfast by 09.30. He never really needed a lot of sleep and hated the idea of wasting a day in bed.

Donaの質問:食習慣は?

一部訳:
とても少食でした。世の中には食べるために生きている人もいますが、フレディは生きるために食べる人でした。達人の域だったのは、たくさん食べたように見せかけること。良い食事を楽しみはしましたが、たくさん食べる必要は無かったのです。自宅でゲストを食事でおもてなし(エンターテイン)することが大好きだったので、自分のノン・イーティングがばれないようにしていました。誤解しないでください、フレディは十分に食べてはいましたが、私の知る限り(12年間)、一度も、背もたれに寄りかかり「腹いっぱい」と言うようなことはありませんでした。

Donna asked about Freddie’s eating habits.
As I have said before, Freddie was a very light eater. Some of us live to eat, but Freddie was one of those people who ate to live. He was the master of moving food around the plate to give the appearance of having eaten a good amount. He did enjoy good food, but really didn’t need to consume very much. He loved entertaining guests at meals in the dining room at Garden Lodge and was able to disguise his non-eating by making sure everyone else was ok during the meal. Don’t get me wrong, Freddie always ate enough to keep him going, but I can’t remember one time when he leant back in the chair saying ‘I’m stuffed!’

 

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三島由紀夫「仮面の告白」とフレディマーキュリー

仮面の告白三島由紀夫24歳で刊行された半自伝的小説。


幼年時代
「王子たちのあのタイツを穿いた露わな身装(略)を空想することが、どうしてそのように快いのか」
「音楽映画をみに(原文まま)行った。袖口に長いレエスをひるがえした宮廷服が忘れられなかった」
クレオパトラ(略)活動写真(略)私は耽奇の目で眺めていた。(略)瞼全体にアイ・シャドウを塗った沈鬱な目つきを。その着ていた超自然な衣装を」
「扮装慾は(略)十歳ごろまで顕著につづいた」
「そこには(略)がいた。私の目には誰も見えなかった。私の熱狂は、自分が扮した(略)が多くの目にさらされているという意識に集中され」
「私は一人の男の子であることを、言わず語らずのうちに要求されていた。心に染まぬ演技が始まった」
17歳
「あこがれていた髪を伸ばすというのぞみ」
19歳
「ピアノの音が、彼の妹に対して私をぎこちない人間にしてしまった」(園子と出会う。モデルになった女性は邦子。戦争中)
「私には異性の肉感についてまったく定見というものが欠けていた」
21歳
「私の直感が園子の中にだけは別のものを認めさせる」
「園子への心の一途な傾倒と、それとは何の関わりもない常軌を逸した肉の欲情」
「私はただ生まれ変わりたかった」
「園子が或る男と見合いをして(略)結婚した」
22歳
「園子に逢いたいという心持ちは神かけて本当である。しかしそれに些かの肉の欲望もない」
23歳
「何事もなく逢い何事もなく別れるような機会をいくつか持った」
「園子のことを考えない日はなかったし、逢うたびごとに静かな幸福を享けた」
「こうした関係にあって、私はしかも、私にしかわからない不徳のよろこびをも抜け目なく味わっていた」
「私たちはお互いに手をさしのべて何ものかを支えていた」


「」内は原文引用、フレディマーキュリーを彷彿させる部分です。他にもたくさんあります。
ノーベル賞選考委員会にアドバイスを求められたドナルドキーン氏は63年、日本の年功序列に配慮し谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫、の順で回答したそうですが(谷崎は選考過程で他界)、本心、三島が一番、と考えていたと後年、NHKに答えています。
凡庸な私もそう思います。

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細江英公写真集

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ブライアンメイ公式サイトアーカイブ

薔薇と水仙
(ダフォダイルと20代インタビューと45歳PVで表現していますが、ヒヤシンスの間違いでは?どなたかご存知ですか)

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新潮社著者プロフィール

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ブライアンメイ公式サイトアーカイブ

上の似ている2人の謙虚エピソード、三島由紀夫ノーベル賞推薦文章を谷崎(58年)、川端(61年)、それぞれの為に書きました。
45歳(フレディと同じ年齢・・)で割腹自殺する月まで国民年金保険料を支払っていました。
don't do suicide, don't do it, don't do it
ジョンディーコンは学歴、演奏技術、世界大ヒット作曲能力、the4人の数億というお金の出入り管理能力、ブライアンメイたらしめる手先の起用さにもかかわらずゴリラの被り物をかぶりゴリラの動きで「いいとも」に出ました。

 

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シンディローパー、デッドオアアライブ、ベイシティローラーズなど楽屋こぼれ話

シンディローパー
デッドオアアライブ
ベイシティローラーズ 
ドナサマー
シャディ
マンハッタントランスファー

番外編
フリオイグレシアス 
白井貴子


すべて80年代半ば、名古屋です。
私は学生アルバイトとして楽屋で、当時「外タレ」と呼ばれた方々の雑用係をしていました。
上記の方々は特に印象に残っているので、当時の雇い主は定年退職していると勝手に判断し、書くことにしました!
時給500円、交通費無し、連絡は前夜のこともありました。
雇い主はステージ設営に行くので楽屋では日本人、私一人でした。

シンディローパー

「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」等のヒット曲を独特の華やかなビジュアルで歌い、踊っていた彼女、心底、謙虚で、ファン思い、優しい方。

その日の名古屋公演が日本ツアー最後の日だったので、ステージ後、スタッフ全員、30人くらい?が楽屋に集まりました。
紙コップが配られ、全員に飲み物(アルコール無し)を注ぐ、というとき、末端の私の仕事だ、と思い私が動こうとしたら遠くにいたシンディローパージェスチャーで私を止めて、自分で、一人一人に「ありがとう」を言いながら注ぎました。
一番端にいた私にさえ来てくれたときの感動は忘れられません。
もちろん、どんちゃん騒ぎなどなく、市の施設なので元通りにする作業に、全員、すぐにかかりました。
そのとき私は思い出したのです。
感動で忘れていたこと!
ステージが始まる前、楽屋に近い女子トイレに、花束を持った高校生の女の子が二人、隠れていたのです。
私はもちろん、見逃しました。
(雇い主さん、時効よね?)
私はそのことをシンディローパーに言いました、そしたら!
彼女が「どこ?連れて行って!」
で、そのトイレに『走って』行ったのです。
シンディローパーが、個室を一個一個、覗き込み(元々ドアは全部、開けっ放しでしたが)、女子高生達を探しました。
が、誰も・・
申し訳なさそうな、残念そうな、シンディローパーの表情、本当に、ファンを大切にしてるんだーーと、新たな感動でした。
あのときの女の子たちにこのブログが届くといいのですが・・


デッドオアアライブ

公演の最中は一人で楽屋の整理整頓、のはず。
でも散らかしっぱなしのタレントもローディも、一人もいませんでした。
だから毎回、ステージから聞こえる音に耳を澄ませていたのに今回は、雇い主が走って来ました。
「ピートバーンズがTバック履いてる!凄い!陰から見ていい、こっち!」

大音量の中、機材の向こうに見えた、美しい後ろ姿、美しいおけつ。
「ユー・スピン・ミー・アラウンド」のイントロと共にマイクを持っていない方の腕を高く挙げ、音楽に合わせ回転し始める。
国際展示場、満場の会場も興奮状態。
ウォーっていう、男性観客の低い絶叫コーラスがステージに大波で押し寄せました。
女性客じゃない、男性客がこんなに、しかも何千人?もの男性が、彼に喜んでいるっていうのも大発見な感覚でした。
観客席にも行ったのですが、見える範囲、男性ばかり。

「ビジュアルの音楽が好きなのは女で男は質」と『発信』する男性が70年代に多かったのですが、私がチケット購入して行ったキッスもクィーンも、半分は(もっと?)男性のお客さんでした。

ピートバーンズ、本当に、全身、お綺麗な方。
楽屋は彼専用の小部屋に籠もっていたので私がそれ以上、近くで鑑賞することは出来ませんせした。


ベイシティローラーズ

「サタデー・ナイト」等のヒットからだいぶ経っていましたが客席は埋まっていました。
雇い主が「レスリーマッコーエンの奥さん、日本人だから。楽屋入るけど気にしてないで。それから牛乳はパットマッグリン用ね。好きなんだって」と言い残し表に去りました。

そして日本人女性が威風堂々、入ってきました。BCRよりもロックンロールな衣装で。
私は圧倒され近寄れませんでした。

雇い主のお言葉を思い出し、クーラーボックスを確認。
他のタレントのときには見たことが無い飲み物、牛乳パックが1本。
アルファベットはどこにもない。
これじゃわからんな、と思ったのでパットマッグリンに「これ、ミルクです。あなたのためです。」って言いました。

牛乳パックの向こうに立つパットマッグリン、お化粧前なのに肌が白陶磁器のように、キメが見えないほど透明。
頬がうっすらピンク、まつ毛が長――くて上下にカール、身長165無いかも?
きゃしゃで、お人形のよう。
あの頃、彼は何歳だったんだろ?

来日中はプロだけに囲まれているからか、庶民の私に目を輝かせて喜んで、「OOホテルのOOO号室にいるんだ、来てよ、ね?」
(私は平顔、平胸、団子っ鼻)
こ、この人(元)スターじゃなかったっけ?と絶句してるうちも子供のように無邪気な笑顔でホテル名と部屋番号を繰り返す。
「ファンが怒るよ」って答えたら「わかんないよー」って言いながら少女のような愛くるしい仕草。
「私ボーイフレンドいるし」(片思いで相手にされて無かったけど)

クィーンの映画を見て思い出しました。
あのときのパットマッグリン、「話し相手」が欲しかったんだ。


ドナサマー

着替えの小部屋の床がコンクリートだったので、雇い主は50センチ四方くらいの畳を置き、いつものように去りました。
ドナサマーが楽屋入りし、小部屋に直行。
直ぐに飛び出して私に走って来ました。(女は私しかいなかった)
「床に邪魔なものがある!着替えできない!」
なんだか、意地悪されたかのような表情。
もちろん、直ぐにどかしました。
「着替えるときに裸足じゃ冷たいからマイボスが置いた」って言ったのですが「なんで?邪魔ー」


シャディ

公演の後、私に「この灰皿、欲しいんだけど」
どこにでもある安っぽい銀色のUFOみたいなアレ。

市の施設の備品だから雇い主に聞きに行きました。
撤収作業で大忙し、困った顔で「一個ね、内緒ね」
シャディにそのまま伝えると、嬉しそうに、大事そうに、一個、持って帰りました。

名古屋市に税金を納めていた方、ごめんなさい!

歌い方のとおり、おしゃれけだるいソフトな方。
顔 (頭)、ちっちゃかった。


マンハッタントランスファー

客席の両側、壁の向こう側に通路がある会場でした。
メンバー4人、2人、2人に別れくつろぎながら楽屋を出ていきました。
私がお使いで一方の通路に入ったら向こうから2人が喋りながら歩いて来る。
反対側の通路からもう2人のちょっとした発声練習が聞こえました。
(観客席を挟んで)
こっちにいる2人がおしゃべりの延長のように向こう側の2人とハーモニー。
歩く速度は変えず。
発声練習とリハーサル。
マイク無し、建物全体に4人の声がリズミカルに響き渡っていました。


番外編

フリオイグレシアス

「ビギン・ザ・ビギン」や「ナタリー」がヒットしたスペイン人。
私は担当しなかったのですが、このアルバイトを紹介してくれた友人が担当。
彼女はスペイン語得意。
フリオイグレシアス、「日本に来て初めてスペイン語で話せた!」と言いながらハグしてチュー。
彼女はとっても美人。


白井貴子

大学生になる前、高校を卒業した後、ライブハウスでアルバイトをしていました。
大学に行けると思っていなかったので。
大勢の日本人ミュージシャンの真摯な態度に打たれたのですが、白井貴子は断トツでかっこよかったです。

ステージに出る前、バンドのイントロが始まるとその場で駆け足。
表情には物凄い緊張のオーラ。
音の高まりと共に両腕も陸上選手のように振って、駆け足続けながら全身でリズムを合わせ、絶妙なタイミングで飛び出していきました。
出たら、一瞬前までの緊張の表情はカケラもなく、お客さんのためにひたすらパワフル。

お客さんはテーブル(5メートル?くらいの細長い木製がステージに対し直角に2列)で飲んで食べて。
そのテーブルに白井貴子が飛び乗り、走り始めた!
お客さん大喜び。
従業員総出でグラスや皿を必死で片付けました。
片付けがエキサイティングって、この後、ありません。

この時の白井貴子さん駆け足、私がブログで書いたショート・ストーリーのモデルです。

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ラミ・マレックと中東和平

ラミ・マレックも、彼が演じたフレディ・マーキュリーも、出自なんか吹き飛ばした。

物凄い才能と、努力で。

でも、と、凡人の私は思う。

アラブ人とペルシャ人は歴史的にめちゃくちゃ仲が悪い、シーア派スンニ派かの、宗派の問題より根深い、と、あちこちのジャーナリストが言っている。

ラミもフレディも、両親はムスリムイスラム教徒)ではない、それぞれに少数派の宗教。

ちなみにフレディ・マーキュリーはイエスキリストを称える歌を作詞・作曲している。新約聖書の中の福音書の話をちりばめた歌詞。(1枚目のアルバム最後から2番めの曲、Jesus)

同じアルバムにDon't believe all you read in the Bible (Great King Rat)、I have sinned dear Father (Liar)とある。

  

ラミ・マレックの両親がエジプト人だからといってアラブ人かどうかは、知らない。

フレディ・マーキュリーの両親はゾロアスター教だから、たとえインドにいても、代々、混血せず、ペルシャ系のままだったのは確か。

だから、と、頭の悪い私は思う。

シリアなど、複雑に絡み合った中東問題の中にいる人たちは、この映画を、どう見るんだろう?

紛争地域に映画を見る設備はない。

でも、ネットはあるらしい。

アラブの人は、ラミがペルシャ人ルーツの人を熱演したことを、どう思う?

ペルシャの人は、アラブ人であろうラミがペルシャ人を熱演したことをどう思う?

 

私は仕事でアラブ人とも、ペルシャ人とも、別々に接した。

私が会った彼らはムスリムで、いろいろな要望を提示されたので、映画ボヘミアンラプソディが絶対に受け入れられないことは身に染みてわかる。

でも、アラブ人とペルシャ人はムスリムばかりではないし、ムスリムでも個人により地域により(アラブがあまりにも広地域だから)、宗教的熱心さに差があることもわかった。

歌は社会制度を簡単に凌駕する。

I Want To Break Free が独裁政権打倒のアンセムになったように。

(だから敬虔なイスラム社会では、小学校での音楽教育をしていない)

敬虔でない地域にも(日本とか)彼らはたくさん住んでいる。

彼ら、さんがこの日本語ブログを目にすることがありますように。

そしたら教えてください、映画ボヘミアンラプソディに好意をもつのかどうか。

 

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